平日のリビングルームで
平日の午前中、自分以外は誰もいないリビングルームの窓を開けてぼんやりする時間が好きである。
ラジオの音も音楽もなく、窓から入ってくる小さな喧噪が心地いい。
下の写真のような町が見下ろせればなおいい、と思うけれど、まあそれは現実問題として無理だから、せめて写真だけでも、気分を感じたい。
私はそもそも、ぼんやりすることが苦手で、何かすることがないと何をしていいのかわからず戸惑ってしまうタイプなので、ぼんやりするといってもせいぜい数分が限度なのだけれど、その時間にけっこう幸せを感じたりする。
このささやかなリラックスタイムだけれど、これが休日だと全然だめなのである。
家の中に一人ではない、というのが理由ではない。
休日と平日は、なぜか空気が違う。
町の喧噪も違う。
休日は、なんとなく「静か」なのである。
都会のど真ん中で生活しているわけではないから、平日といってもそれほどうるさいということはないのだけれど、それでも平日は窓からの「音」も、なんとはなしに「活気」が感じられる。
思い返してみると、子供のころから各曜日にはそれぞれの「におい」と「空気」を感じる子供だった気がする。
中でも一番好きだったのは、金曜日と土曜日の夕方だ。
私は結婚するまでは商業地に住んでいて、一年中、騒々しい「音」の中で育ってきた。
金曜日と土曜日の夕方がなぜ好きだったのかはわからないけれど、まだ日が完全にくれる前の夕方に、休日を目前にした「解放感」と「ワクワク感」を感じていたのかもしれない。
いまでは、曜日の「におい」というのはあまり感じることはないけれど、この「におい」は、雨が降る前のしめった空気のにおい、を感じるのと少し似ている気がする。
いまは土曜日の夕方で、パソコンの前にある窓からは、少しひんやりした初夏のそよ風が入ってきて気持ちがいい。
梅雨真っ最中のいまの空は曇りで、天気予報は晴れだったのに、またいつ雨が降るともわからない空模様である。
それでも、この穏やかな休日の時間は平日の「おだやかなリビングルーム」とは少し違うけれど、何とはなしに心地いい。
混沌とした世の中の様子にげんなりした気持ちになることが多い今日この頃で、ささやかながらひと時の癒しを感じられることが嬉しかったりする。
本とストレス発散と
この写真は20年近く前のパリかロンドンの街角。
若かりし頃に行った数少ない海外旅行の一場面の一つで、たまたま見つけたのだけれど、いくら思い返してもどちらの都市で撮ったのか、全く覚えていない。
当時は新型コロナなんてものは当たり前だけれど存在さえしておらず、けれども偶然ながら写真には人っ子一人映らず、車もほとんどないから、いまのパリかロンドンかと言ってもわからないかもしれない…なんて少し思ったりした。
それにしても、いままた、特に関西では変異種が流行ってきていて、せっかく緊急事態宣言が解除されたのもつかの間、全国的にまた大きな流行の山が来るのではないかと心配である。
とはいえ、一年以上も自粛生活をしていると、さすがに疲れてきていい加減ストレスの限界を感じることもこの頃は多くなった。
いい加減、自粛生活の中での、私にとって新しい「暮らし方」つまりは「気持ちの持ち方」を開拓していかなければヤバいと思うようになってきた。
ところで、外出は近所への生活必需品の買い物だけの自粛生活をずっと送っているのだけれど、先日、あることに気づいてかなり驚いた。
自粛生活の中で、ネットショッピングは必然的に増えていたのだけれど、といって、そもそも実際に手に取って納得して商品を買うタイプなので、あるもの以外は自粛生活前と比べても買う量はそれほど変わりはなかった。
しかし、あるもの、だけはとても増えていた。
そのあるもの、とは、「本」である。
家の近くにジュンク堂があるから、本はもっぱらそこで買う。
けれど、コロナが流行してネットで買うことが多くなった。ジュンク堂と連携しているhontoで買っている。
それは単に店舗との連携がスムーズで使い勝手がいい、ということだけではなくて、hontoから送られてくる本たちは丁寧に梱包されていて、本への愛情が感じられるところが嬉しいからである。
さて、そのhontoだけれど、ポイントカードがあって、そのカードの履歴を通して、ネット上だけではなく、実店舗での購入履歴も見ることができる。
先日、たまたま購入履歴を見ていてすごく驚いた。
ここ数か月、毎月の書籍購入代がすごいことになっていた!
自分では、それほど買っているつもりはないのだけれど、よく見ると、子供にまつわる本をよく買っていた。
子供も本が好きでよく買っているところにもってきて、自分の本、ではなく「教育のためだから」という免罪符的な意識から、気が付けばあれもこれもと、ついつい買ってしまっていたのである。
反省……
きっと、私なりのストレス発散だったのだ、と思うと同時に、自分が思っていた以上に私は本が好きなのだ、と改めて思った次第だけれど……
ちょっと気持ちを引き締めます。
気楽に、ゆったりと
年が明け気が付けば3月。
年度替わりということも手伝って、なんだがバタバタする毎日だ。
あまりにバタバタするので、毎日の食卓も、副菜は多少作るけれど、テイクアウトのお惣菜が多く並ぶようになってしまった。それを許してくれているパートナーには感謝感謝である。家族の健康を心配しながらも、もう少し落ち着くまでは……と家族に甘えてしまう自分が情けない。
そんな中、とある作家のエッセーを目にした。
その作家は、年も近いのだけれど地元が一緒で、親同士は顔見知りだったりする。そんなわけで、そのエッセーも、作家が育った町のことについて触れてている部分は私にとっては結構リアルで、読みながら私も生まれ育った町に思いをはせていた。
と、幼いころの作家の両親と食事についてふれている部分があった。
ご両親は共働きで、特にお母様の仕事が忙しく、夕食はほぼお父様が仕事から帰って作っていたそうである。休みの日も、仕事で忙しいお母様に代わり、お父様が子供たちを遊びに連れて行っていたらしい。
私もこのお母様のことと顔見知りなので少しは知っているけれど、真面目で温厚で優しい人である。子育て真っ最中の当時は、夫へも子供たちへも「うしろめたさ」を感じていたかもしれない。
ご本人を知っているだけに、このエピソードを読んだとき、自分も子育てをしているということもあって、なんだが胸が痛んだ。
同時に、世の中にはいろんなご家庭がある、と強く思った。
みんな、他所の家の中のことをすべて見ることはできない。
話に聞いたり、実際に目にしたりして、こんな感じ、と想像することはあっても、それは実際の姿ではない。
隣の芝生は青く見える、というけれど、あれこれと「周り」と「自分」を比べては、ああでもないこうでもない、とついつい思ってしまう。
ときには、ちゃんと家事と子育てをこなせていない自分に、ひどく落ち込んでしまうこともある。
けれど、すべてを「完璧」にこなしている人なんて、実際にいるのだろうか。
みんな、足りないところがあるから、不完全だからこそ、「人」なのであり、その足りない部分を、ときには家族に、ときには友に、助けてもらっていいのではないか。
みんな、みんな違った生き方、考え方をしていて、みんな違っていていいのだ。
エッセーを読んだとき、ふとこの考えに思い当って、少し気が楽になった。
気楽に、自分という「人間」を受け止めてあげながら、ゆったりと構えて生きていきたい、と強く思う今日このごろである。
自分の理想の暮らし方を求めて
新しい年がやってきた。
晴れやかですっきりとした気持ちで迎えたいお正月。
でも今年はそういう気にはなれず、といって、やっぱり新年を迎えたのだから、今年一年を自分なりの「良い方向」に向かわせたい、という気持ちは大きい。
大きなことは一度にできないけれど、少しずつ、少しずつ、自分が「理想」とする「暮らし方」を作っていこうと決めた。
自分の「理想」というのが、なんとなくのイメージでしかなく、具体的に表現できないのが残念だけれど、それも少しずつ意識して形にしていこう。
とにかく、一歩足を踏み出してみよう。
そうしなければ何も始まらない。
というわけで、というわけでもないけれど、年末、古くなったIKEAの水切りラックを捨てた。
代わりに、思い切ってラックをやめ、水切り用のシートを置くだけにした。
洗えばすぐに布巾でふいて、シートは干して乾かす。
心配していたよりも、大きな不自由を感じることもなく、むしろキッチンの作業スペースが広くなって気持ちがよくなった。
そういえば、このブログも一年が過ぎ、確か始めたのは年末だった。
どうやら年末は、私にとって、新しい一年をどういう風に過ごしていきたいかを考え始める時期のようである。
子育てをしている親の心に、優しい風を吹かせてくれる本を見つけた
母と子。
子と母。
父と子。
子と父。
子育てをしていると、意識していなくてもこの関係は常に頭や心のどこかにあって、そこに自分の理想だとか親と子のお互いの現実だとか、様々な要素がからみあって、ときには悶々としたり、ときには落ち込んだり、ときには幸せをかみしめたり……と、まあ、とにかく、子供を育てているといろんな感情がいつも押し寄せてくる。
先日、家族で本屋さんに行った。
あれこれと迷った上げく、何か感じたものがあったのか、子供が一冊の本を手に取った。
この表紙、見覚えがあった。
そして、タイトルも。
よほど面白かったのか、家に帰るなり読み始めた子供は、サクサクと読み進め、あっという間に読み終えた。
すごく面白かったから、お母さんも読んでみなよ。
そう進められて読んでみた。
どこにでもいる活発だけれど心優しい男子小学生とパートをしている母、そして家族思いの父。
子供はすすんで勉強をするタイプではなく、朝も母に起こされることしばしば。
いつも母に小言を言われてしまう。
そんな少年が、ある日、母親の取扱説明書を作って母を上手に扱おう、なんて思いつき作り始めてみる。
と、これだけ書くとあまり面白みがないように感じてしまうのだけれど、それが全然、とにかく本気でおもしろい!
笑った!
うんうん、とうなずいた。
ほろりとした。
泣いた。
目にこみ上げてくる熱いものをおさえられなかった。
その姿を見ていた子供が、やっぱり泣くと思った、とニヤニヤしていた。
この本の何がいいって、ストーリー全体にユーモアがある。
親の気持ちも子供の気持ちも、丁寧にきちんと描かれていて、どの登場人物たちもきちんと作品世界の中で生きている。
児童書だから、大人の私が読むとあっという間に読めてしまうけど、読んだあと、なんだかとても温かい気持ちになれた。
また、この作家の作品を読んでみたいという気にもなった。
最後のオチも良かった。
オチだからここで書きはしないけれど、すとんと心に落ちて気持ち良かった。
想像通りという人もいるだろうけど、あのオチがとても気に入った!
子育てをしていると、親は本当に色々と迷う。
嬉しいこともあるけれど、楽しいこともあるけれど、毎日が試行錯誤の連続で、悩んだりすることの方が多いかもしれない。
そんな中で、この本は子育てをしている親の心に、優しい風を吹かせてくれる。
子どもと一緒に読んで笑うもよし。
泣くもよし。
子どもが小さいからこそまだ持てる、大人になったら決して味わえない「密の時間」を過ごすにはピッタリの一冊です。
最近の図書館って……
最近、関西の図書館がすごい!
これが図書館なの……と、テレビやネットなどでその器を見る限りには驚いてしまう。
今日、紹介したいのは和歌山市民図書館。
目にしたとき、これ、本当に図書館なの? と、目を疑った。
まるでお洒落な本屋さんみたい。
それもそのはず。
こちらのエリアは、スターバックスと蔦屋書店が併設されているフロアのようである。
スタバと蔦屋と聞いて納得。
言われてみると、どちらの店舗にも共通するテイストが入っている。
でも、この図書館のすごいところは、スタバと蔦屋書店だけでなく、和歌山の名産品や特産品なども販売しているらしい。
肝心の図書館のフロアは、ライフスタイルやティーン、そして幼い子供たちのためのコーナーも設けられていて、和歌山市民図書館のホームページで見る限りには、どれもお洒落な本屋さんのようである。
こんな図書館が近くにあれば、大好きな本に触れ合いに行くだけでなく、ちょっとしたのんびりカフェタイムも過ごせる。
大阪にも、今年、中の島に子ども図書館ができた。
これは安藤忠雄氏の貢献が大きなものなのだけれど、建築家、安藤忠雄氏についても少し書きたいので、こちらの図書館は日を改めて紹介したい。
さて、和歌山市民図書館に話を戻すけれど、この図書館は私が幼いころの図書館とは全く違う存在である。
そもそも、ただ単に本を借りに行く場所、というだけが図書館の役割ではなくなってきているのだろうと思う。
もちろん、老朽化などによる建て替えのタイミングで、そのときどきの時代にあった「造り」に変改していくことは当然かもしれないけれど、インターネットなどのデジタル社会が進み、本を読むことも、これまでのような紙面によるものだけではなく、オンライン上で、スマホやタブレットなどで簡単に読むことができるようになった。
そんな中で、紙の媒体を扱っていくのだから、その在り方は変わっていくのが自然のことかもしれない。
個人的には、大好きな本に触れることができる場所が、よりお洒落で、よりリラックスできる癒しの空間に変化して日本中に増えていくことはとっても嬉しい。
和歌山市民図書館にはいつか行ってみたいと思うし、こういう図書館が日本全国に増えて行ってくれれば、本という存在が多くの人にとってこれまで以上に素敵な存在になっていくだろうし、大好きな「本屋さん」の在り方も、より魅力的に変化していくのではないだろうかと思う。
けれども、一方で、これまでのような、つまりは私が子供だったころのような町の本屋さんのままでは、この先生き残ってはいけないだろう。
これまでにも何度か書いてきたけれど、本屋さんも、他の様々な業種も、大きな変化を迎える時代が来ているのだと思う。
それは小売店だけでなく、仕事も教育も、もっと言えば人々の暮らしも、いまこの世に存在するすべてのものの在り方が変わっていくのだろうと思う。
その変化がどういうものなのか想像さえもできないので、不安が大きくふくらんでいく。
コロナ禍になり、そういうことをよく考えるようになったこの頃である。
とはいえ、そうした変化にのまれることなく、自分らしく生きていきたいと強く思う今日この頃である。
毎日の幸せ
8月半ばから、細々した雑用に追われて気が付けばもう11月目前。
あっという間に今年も終りそうだ。
最近は行動範囲が極めて狭くなり、足を運ぶ本屋さんは駅前の大型書店かネット販売のみ。
せっかく、町の本屋さんを応援したいという気持ちから立ち上げたこのブログだったけど、当初の予定とは違った形でのんびりと進んでいるのが現状。
それでも、細く長く続けていきたいので、本や本屋さんからは離れずに、その時々で感じたことをぼちぼちと書いていこうと思っています。
お付き合いいただければ嬉しいです。
さて、本屋さんなんだけれど、コロナ禍で本を読む人が増えているのではないだろうかと思う。
でも一方で、実際に本を買う人の数は減っているのではないだろうかという心配もある。
本の起源はすごくすごく古いから「本」というか、「紙(的なものに書かれた)読み物」は、たとえ現在の形とは違った状態に変わったとしても、存在はしていくと思う。
ただそれがどんな形になっていくのか、また、今のように手軽に手に取ることができるのかどうかはわからない。
本好きとしては、手軽で身近ないまの存在のまま継続していってほしいとは思っている。
けれど、本に限らず、音楽や映画、テレビなど、この頃は私が子供だったころの「在り方」とずいぶんと変わってきている。
それは芸能的な分野だけではなく、教育や仕事など、ありとあらゆるものが、これまでの「価値観」とは違う形に変化していっている。
その変化の行きつく先が見えない、わからない分、不安になる。
たまたま、新型コロナというきっかけで大きく目に見えて色んなことが変わってきているように思えるが、コロナはきっかけの一つにすぎず、100年単位で世の中を考えたときに、変化の時期がいまきているのかもしれない。
そんな不安定で不確定な時代の中だけれど、できれば明るく楽しく暮らしていきたい。
そうするためにどうすればいいのか、わからないから気になった本を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり……なんていう生活をいまはしている。
何か一つでも「いいな」とか「気持ちいいな」とかいう、ふわっとした気分を得られれば、何か宝物を見つけたかのような気持ちになって嬉しい。
毎日の幸せは、この小さな「発見」と「嬉しい」気持ちの積み重ねなのかもしれない。
なんて思う今日この頃。
そうそう。
好きな作家の1人に村上春樹さんがいるのだけれど、彼の『職業としての小説家』という文庫本を先日買った。
まだ読んではいないけれど、ここしばらくのバタバタ生活が少し落ち着きそうなので、久々にゆったりとした気持ちでこの本を読んでみたいと思っている。
読み終わったら、また感想を書きます。