気づいたときこそ、ステップアップ
朝、朝食をとりながらラジオを聞いている。
新型コロナ感染まっしぐらのときはワイドショーをよく見たけれど、いまはまた、ラジオに戻っている。
ラジオは、自分の好みの曲を流してくれるときもあるけれど、あまり好きではない曲や苦手なジャンルに入る曲も流れることもあって、心に余裕があるときは、そうした好きではない曲でさえ、こういう音楽もあるよね、なんておおらかに構えてられるけど、気持ちに余裕がないときは、音楽にさえイラついてしまう。
数日前、いつものようにラジオをつけて、淹れたてのコーヒーを飲みながらパンをかじりつつ聞いていると、朝だというのにノラ・ジョーンズが流れてきた。翌日にはフランク・シナトラが。
朝からジャズが流れるなんて、ジャズ好きとしてはテンションが上がる。
しかも、どちらも好きなテイストの曲調だった。
シナトラは「that's my life」という私のお気に入りのスタンダードナンバーの一つだ。
朝からお気に入りの曲調を偶然にも耳にしたときは、どういうわけかすごくテンションが上がってそのあとの仕事もけっこうはかどったりすることが多い。
朝ではなくても、自分が予期しないタイミングで自分のお気に入りの「こと」や「もの」が現れると、ブルーな気持ちもどこへやら、急にテンションが上がって気分がよくなることがある。
そう考えると、人間というものはけっこう気分屋さんだと思ったりする。
私はオンとオフの切り替えがすごく苦手なタイプで、どちらかというと不器用な生き方しかできないタイプだと思う。
でも、どんなに小さなことでも心に響くことがあると、ふいに身体にスイッチが入ってすごく順調に物事を進められる。
これが自分の意志で調節できないから不器用な生き方しかできないのだけれど、こういうことは訓練すると、意識してできるようになると、本やネットなど自己啓発書的な類のものには書かれている。
とはいえ、実際に実行することはとてつもなく難しい。
けれど、難しいからこそ、多くの人が実行できないからこそ、そうした術を身につけている人は様々な分野で称賛を浴びるのである。
ときどき思う。
世間で脚光を浴びている人たちは、ぱっと見ただけでは、その偉業をすごく簡単に成し遂げた、ときには「幸運」の要素も手伝って、パパッとやりとげたように見えるときもあるけれど、上辺では見えないその裏側では、まさに血のにじむような努力を重ねたのではないだろうか。
こうして言葉に書けば、そりゃそうだよ、と思うけれど、でも実際のところは、他人には見えない部分で本当に細かく細かく、様々なことを考え、思考に思考を重ね、それを実行するために、嫌だけれども、吐き気を覚えるほど逃げ出したくなるほどやめたいけれども、自分の中で決めた「あること」を達成するためにすごくすごく小さなことを地道にコツコツと繰り返し繰り返し積み重ねてきたからこそ、大きな成果があるのではないだろうか。
もちろん、運的要素が強くてパッと芽が出た人もいるだろうけれど、パッと芽が出てもそのあと生き残るために考えて努力を重ねない人は、たぶん、長くは生き残れない。
長い年月、世間にそれなりに名前と業績を残している人は、世に出る前もそうだけれど、世に出たあとも、きっと地道な努力を積み重ねているはずである。
学生のころや社会人に入ってからでさえ、この「努力」という言葉が、「コツコツやっていく」という言葉が、本当に嫌いだった。
そうした言葉を親や周囲の大人からかけられると、ひどく嫌気がさした。
でも、いま、人の親になり、成長していく我が子を見ていると、コツコツ積み重ねていくことの大切さを、いまさならがら思い知らされる。
一回一回の成果は小さくても、それが十回、二十回、五十回、百回、と積み重なっていくと、小さな粒の土も、いつかは小さな山になり、小さな山が集まれがやがては大きな山になる。
でも、一度に大きな山を築くにはとてつもない労力が必要だ。だからなかなかできない。
一方で、小さな土の粒を積み重ねて山を作ることもとてつもなく面倒だから、なかなかできない。
どちらもできないから、私は中途半端な生き方しかできれいない。
でも、まだ人生半ばである。
自分の弱点に気づいたそのときこそが、ステップアップのチャンスだと思う。
これから先の人生で何ができるのかわからないけれど、いくつになってもチャレンジする気持ちを持ち続けながら、立ち止まらずに先に進んでいきたい、と思う今日この頃である。