『壁を破る言葉』
いくつになっても、人は迷う。
悩む。
泣く。
そして笑う。
年齢によって、その内容は変わってくるけど、生き続けていると、人はいろいろなことに遭遇するわけで、自分が好んで選んだこともあるけれど、ときには自分の意思とは全く関係のない場面に出くわし、巻き込まれてしまうこともある。
それが人生……と言ってしまえばそれまでだけど、でも、できることなら、ずっとずっと気楽に悩みなど持たずに笑って過ごしていきたいと思う。
実際にはできないのだけれど……。
15、6年前に、この本に出会った。
そのときも、色々と迷ったり悩んだりしている時期だった。
ふらりと立ち寄った小さな町の書店の棚にひっそりと、隠れるようにこれが収まっていた。
『壁を破る言葉』
岡本太郎 著
創作や生きることなんかをテーマに、アーティスト岡本太郎氏の言葉を集めたものだった。
正直、それまでは岡本太郎はあまり好きではなかった。よくわからなかった、という方が正しいのかもしれない。
でも、ここに集められた氏の言葉はどれも力強く、なんだか勇気をもらえた。
少し、気持ちが軽くなった。
大丈夫だよ、と言われているきがした。
以来、太陽の塔を見る目が変わった。
以来、この手の本も手にとるようになった。
一生懸命生きている人の言葉には、どこか力があった。
子どもの心の引き出しにある絵画
ときどき、本当にときどきだけれど、美術館に行く。
気になったアート展がやっているときくらいなので、一年に一度いくかいかないかくらいのことだけだけれど、たまにいく美術館はとても好きだ。
美術館は、たいてい天井が高くて、壁は作品が栄えるように真っ白で、すがすがしい空気があるところが好きである。
でも、たまに人気の絵画展などに行くと、あまりの人の多さに少しうんざりしてしまう。
このコロナ情勢の中、美術館は完全には開館されていないことが多いし、「密」の空間をつくらないように工夫されているだろうから、美術館内で混雑することはいまはないだろうけど、でも人であふれた美術展は少しもくつろげない。
最後に美術館に行ったときは、もう半年くらい前になるだろうか。
実を言うと、この春にも行きたいものがあったのだけれど、コロナで行けず、残念な思いをした。
半年ほど前に行ったときは、子どもも一緒に行った。
モネとかシャガールとかが出ている普通の絵画展だったのだけれど、子供に尋ねると一緒に行くというので連れて行った。
ついてきたのはいいが、案の定、小学校低学年の子どもには退屈だったみたいで途中から飽きだしたけれど、それでも早く帰ろう、とは言わず、静かについてきていた。
その中に、一点だけルソーの絵があった。
最初、ルソーだとは知らなかったのだけれど、その色遣いの美しさに思わず引き寄せられたのだった。
数か月前、小学館あーとぶっくシリーズを紹介したけれど、その中にルソーの絵本もある。
アンリ・ルソー(1844-1910)
フランスの素朴派の画家。
パリ市の税関職員だったのだけれど、好きで続けていた絵に専念するため、22年ほど勤めていた税関を辞めて絵に専念する。
その作品は生前の評価は低かったが、ピカソやゴーギャン、ロートレックなど一部の理解者からの評価は高かったらしい。
ルソーは生きている間は大好きな絵で思うような評価を受けずさぞ残念な思いを何度もしてきたことだろうかと想像するが、そんな中で周囲の心無い言葉や行為に負けることなく描き続けた行為はとてもとても素晴らしいと思う。
私は絵のことはよくわからないが、ルソーの色使いは本当に好きで、見ているとなんとはなしに心が和んでいく。
もちろん、現在に至るまで名前も作品も残り続けているのだから、その技術や才能は、見る人がみればすごいのだと思うけれど、そういう専門的なことは別にして、作品に独特の「世界観」を表現でき、かつ、見る者の心を「刺激する」ことができるということは、何かを表現するものとして素晴らしいと思う。
逆に言えば、どんなに技術があろうが、専門的な知識が深かろうが、見る者の心に語りかける「何か」を表現できなければ、表現者としてはマイナスではないかと思ってしまう。何も知らない素人感覚なのだろうけど……。
美術館からの帰り際、ショップで何かお土産を買ってあげる、と子どもに言うと、しばらく迷ったあげく、作品展の図録を選んだ。
どうせ読まないのに買うなんてもったいない、なんて思いながら買ったのだが、吟味して買っただけあって、いまも気が向けば開いて眺めている。
好きなのか、と聞くと、好きだと答え、きれいな絵を見ているのが好き、だとも言ってきた。
小学館のあーとぶっくのおかげかどうかはわからないけれど、子どもの「心の引き出し」の中に絵画がいつの間にかひっそりと収まっていたことが、親としては少し嬉しかったりする。
「本質」って何だろう……
映画が好きである。
最近は本の方が好きだけれど、映画もやっぱり好きである。
中学、高校、大学時代は特によく見た。
映画館にもよく見に行ったし、テレビでもよく見た。
NHKのBS3では、特に古い映画をよく放送してくれた。白黒ものも多かった。
いつのころからか、長時間、テレビ画面を見ていることが億劫になってきて、いつのころからか、見たい映画も少なくなってきた。
気が付けば、あまり映画を見なくなった。
最近は、ネットフリックスというオンラインで動画を配信するサービスを使うようになり、以前より映画がずっと身近になったけれど、タブレット画面を通してしか我が家では見ることができず、タブレットの、スマホより大きいとはいえ、テレビより小ぶりな画面を長時間見ると、これまた疲れてくるので、思ったよりは見ていない。
それにしても、最近はテレビよりオンラインによる動画配信サービスが世界中で流通していて、日本でも、テレビ局はオンライン配信サービスに力を入れてきているような気がする。
確かに、いつテレビをつけてもニュースの時間以外は私には興味のないバラエティ番組が多いし、見たいドラマも全くない。地上波よりもBS放送の方がまだ見る機会が多い。数か月前までは、BS258で「Dlife」というディズニーの会社が運営するチャンネルをよく見ていた。好きな海外ドラマをよくやっていたからだ。
しかしディズニーもディズニーデラックスという動画配信サービスを始め、無料放送の「Dlife」は残念ながらなくなってしまった。
動画配信サービスは、自分の好みの番組を好きな時間に好きなようにどこでも見られるから、手軽で便利である。世に流通するのも当然だ。
いまは新型コロナ騒動で、ドラマや映画、バラエティ番組など、とにかく撮影すること自体が難しいから、オンラインであれ、従来の「テレビ」媒体であれ、続けていくにはスタッフも出演者も、あれこれと規制や不便が重なり大変だろうと推察する。
が、こうした大変さは差し引いて、今後のテレビはどうなっていくのだろうか、とふと考える時がある。
例えば音楽。
かつて主流だったレコードは、カセットテープになり、CDになり、MDになり、MDはいまは消えてしまったけれど、CDはまだあるし、カセットテープも細々ではあるけれど残っている。レコードもその音質の良さとジャケットのお洒落さから、また盛り返しつつある。
テレビが登場する前に主流だったラジオも映画館も、かつての勢いはないとはいえ、まだ存在している。
テレビも、かつてのような勢いはなくなっても、オンライン主流の世界に突入後も細々と生き残っていくのだろうか。
本だって、最近は電子書籍が多い。
本の収納場所も全く気にならないし、大量の書籍がいつでもどこでも気軽に読めるのは、本当に魅力である。
けれど、紙の質感や表紙に込められた作り手側の「熱意」は伝わってこないし、本を開いたときの、あの独特の空気感もない。
けれど、本だって『源氏物語』は平安時代中期にできたというし、それから1000年以上経ったいまでも、形は変わってもちゃんと「紙」に書かれた「書物」は存在している。
どんなものであっても、媒体は変わってもその本質は残っていくと信じたい。
「本質」って何だろう。
物事の「本質」。
表現の「本質」。
人間の「本質」。
ときどきは考えなければ、大切なものを見失ってしまうかもしれない。
そんな気がふとした。
暮らし方を楽に。「しなければいけないこと」の基準。
パソコンに入っている写真を整理していたら、こんな写真が出てきた。
子供の頃、ビートルが大好きだった。
いつか大人になったら、絶対にビートルに乗りたい、とまで思っていた。
といって、車好きというわけではない、と思う。
小学生のころ、近所にちょっとおしゃれな雑貨屋さんができた。
下町テイストたっぷりの近所では珍しい、少し大人な感じのする、記憶の中では、湘南の海だとか、サーフィンだとかが似合うようなすがすがしい海の雰囲気のする店だった。すぐに閉店になってしまったけれど、その店は子供の私にはちょっと敷居が高いけれど、なんだか特別な気持ちになれるお店だった。
そこに、ビートルのイラストが入っている文房具シリーズが置いてあって、それがなんだかお洒落で、当時の私のお気に入りだった。
下敷きだとか筆箱だとかを買ったような気もするが、残念ながらいまは残っていない。
さて、私がビートルに触れるきっかけはそういう雑貨屋さんにあった文房具だったわけだけれど、たまに町やテレビ、映画なんだで見かけるビートルはやっぱり格好が良くって、丸いけれど、どこかスマートな感じがして、色も明るいこの車が好きだった。
私は白黒映画だとかオールディーズだとかが好きで、ビートルのこの形はまさにそういった時代を彷彿させるところが一層気に入っていたのかもしれない。
大人になって、免許を持って車に乗るようになって、乗りたい車を考える時、やっぱりこの当時のビートルは魅力的ではある。
けれど、一度や二度の試し乗りではなく、実際に愛車として乗り続けたいか、と聞かれれば、NOと答えると思う。
いま、乗っているのは日産のノートだ。
最新のe-powerになる前のタイプだけれど、衝突予防機能やサイドやバック、はたまた頭上からの状態を見ることができるカメラはついているので、それなりに中身の装備はついていると思う。
一度こうした最新装備の車に乗ると、運転技術に自信のない私は、特に車庫入れのときなどには最新装備に頼ってしまう。
それに、何かあったときのメンテナンスも大きい。
部品があって、現行の車は、事故だとか損傷だとかがあったときにすぐに対応できる。
あと、車検だとか日々のガソリンだとか、そうした現実的なコストの部分は、車を維持していく上では決してスルーできない。
機能や便利さ、コスパを優先してしまう私は、やはり車好きではないのだと思う。
こうして考えていくと、車は自分の「好み」を象徴している部分があるような気がする。
たとえば、私がいまのノートをとても気に入っている理由は、コンパクトで小回りが利くこと、機能的なこと、室内がそれなりに(私にとって)くつろげる空間になっていること、である。
確かに、買うときにあれこれと吟味して買ったから、それなりの思い入れはあるし、たいていの部分において気に入っているから買ったのである。
でもそもそも、そうした気に入った部分は、私の「好み」の集まりであり、私が何かを買うときにこだわるポイントの集まりでもある。
だからこそ、車といえど自らの「好みの象徴」と言えるのだろう。
いつの頃からか思うようになったのだが、自分の気に入ったものに囲まれて暮らしていきたい。
もちろん、これは多くの人が思っていることだろうけれど、よっぽど急を要するものでなければ、自分の好みをできるかぎり尊重して、仮に妥協する部分があったとしてもその妥協は自分が納得できるレベルにとどめておきたい。それができなければ、好みと妥協のバランスがうまくとれたものが現れるまで持たない。そうすることで、持ち物は自然と吟味されていくし、むやみに持ち物が増えることもない。
私の場合、家の中に物が増えすぎると心のバランスを崩してしまいがちになる。
イライラしてきたり、心が落ち着かないときに家の中を見渡すと、散らかっていることがけっこう多い。むしろ、さっぱりと物があまりなく片付いているときの方が気持ちがすっきりして落ち着く。
家の整頓具合と心の中身は比例していると聞くので、どうやら私の心は、キャパシティが狭いようである。
それに気づいてからは、できるだけ「やること」「しなければいけないこと」を増やさないようにしようと心がけ、自分で「しなければいけないこと」の基準を低くするように注意している。それでも「しなければいけない」と自分で思うことは増えてしまうので、増えてくるといっぱいいっぱいになってひどいことになる。
とはいえ、することの基準を少し低くするように注意していくと、「しなければいけないこと」は、自分が勝手にしなければいけないと思い込んでいただけで、周囲はそこまで求めていないことも多い、ということに気づいたりした。
それに気づくと、暮らし方は少し楽になったように思う。
それにしても、心の調整というものは、いくつになっても難しいものである。
珈琲豆を挽く。音楽を奏でるコーヒミル。
珈琲が好きである。
ときどき、紅茶党になることもあるけれど、朝はほぼ珈琲を飲む。
豆が切れていたりして飲めないときは、なんとなくスッキリしなくて物足りない。
豆は、ただでさえ時間の足りない朝に挽くことは大変すぎるので、日中に2日分ほどをまとめて挽いて、冷蔵庫に保存しておく。
そもそも、豆から挽くようになったのは、一年くらい前からだろうか。
始まりは、『大どろぼうホッツェンプロッツ』という児童書である。
ドイツの作家プロイスラーが書いた児童文学シリーズの第1巻なのだが、ここにとても変わったコーヒー挽きが登場するのである。
このコーヒー挽きは、孫とその友達がおばあちゃんの誕生日プレゼントに作ったもので、ハンドルを回すと音楽を演奏し始めるのだ。大どろぼうのホッツェンプロッツがそれを盗んだからさあ大変。ホッツェンプロッツを捕まえようと少年2人が奮闘する、というのがおおまかなあらすじである。
日本での初版は1966 年。56年も前に登場しているのに、廃刊になることなくいまだに読み続けられているのだからその人気は確かなものだろう。
とはいえ、何十年も前、小学生だった私は図書館で何度もこの表紙を目にしていたが、どうにも読む気にはなれずに大人になった。
それが我が子が小学生になって手に取ったのをきっかけに、読み聞かせをすることになったのであるが、これがなかなか面白い。スリルもあるが、ユーモアもある。先の展開がどうなるのだろうと、気になってしまう。
さて、問題のコーヒー挽きだが、それが登場して音楽を奏でる様子がとても楽しそうに描かれているので、読んでいるうちにだんだん珈琲が飲みたくなってきて、挙げ句の果てには自分でも豆を挽いてみたくなった。
とはいえ、面倒くさがりの私は、使った後のお手入れも嫌だったし、コーヒーミルを買ったところで続くかどうか自信もなかった。
でも、豆は引いてみたい。
できることなら、小説に出てくるような、ハンドルを回すたびに音楽を奏でる楽しいミルを挽いてみたいが、さすがにそれは無理そうだ。
結局、デザインも造りもシンプルで、お掃除も楽チン、かつ安価なミルを探し出し、購入。
ハンドルを回して挽くたびに思いの外、力が必要であるが、挽いてときに立ちのぼる香りの良さが何ともいえず、味も、粉よりもおいしく、何より自分の好みの味にいくらかは調整できるところが嬉しい。
以来、珈琲豆を挽いている。
豆から買うようになって、自分の好みも少しはわかるようになってきた。
どうやら私は、少し酸味のある味が好きなようだ。
凝りだすと、入れ方ももう少し研究してみたくなるのだが、ゆっくりと珈琲を入れる時間はいつもいつも後回しになってしまい今に至っている。
気づいたときこそ、ステップアップ
朝、朝食をとりながらラジオを聞いている。
新型コロナ感染まっしぐらのときはワイドショーをよく見たけれど、いまはまた、ラジオに戻っている。
ラジオは、自分の好みの曲を流してくれるときもあるけれど、あまり好きではない曲や苦手なジャンルに入る曲も流れることもあって、心に余裕があるときは、そうした好きではない曲でさえ、こういう音楽もあるよね、なんておおらかに構えてられるけど、気持ちに余裕がないときは、音楽にさえイラついてしまう。
数日前、いつものようにラジオをつけて、淹れたてのコーヒーを飲みながらパンをかじりつつ聞いていると、朝だというのにノラ・ジョーンズが流れてきた。翌日にはフランク・シナトラが。
朝からジャズが流れるなんて、ジャズ好きとしてはテンションが上がる。
しかも、どちらも好きなテイストの曲調だった。
シナトラは「that's my life」という私のお気に入りのスタンダードナンバーの一つだ。
朝からお気に入りの曲調を偶然にも耳にしたときは、どういうわけかすごくテンションが上がってそのあとの仕事もけっこうはかどったりすることが多い。
朝ではなくても、自分が予期しないタイミングで自分のお気に入りの「こと」や「もの」が現れると、ブルーな気持ちもどこへやら、急にテンションが上がって気分がよくなることがある。
そう考えると、人間というものはけっこう気分屋さんだと思ったりする。
私はオンとオフの切り替えがすごく苦手なタイプで、どちらかというと不器用な生き方しかできないタイプだと思う。
でも、どんなに小さなことでも心に響くことがあると、ふいに身体にスイッチが入ってすごく順調に物事を進められる。
これが自分の意志で調節できないから不器用な生き方しかできないのだけれど、こういうことは訓練すると、意識してできるようになると、本やネットなど自己啓発書的な類のものには書かれている。
とはいえ、実際に実行することはとてつもなく難しい。
けれど、難しいからこそ、多くの人が実行できないからこそ、そうした術を身につけている人は様々な分野で称賛を浴びるのである。
ときどき思う。
世間で脚光を浴びている人たちは、ぱっと見ただけでは、その偉業をすごく簡単に成し遂げた、ときには「幸運」の要素も手伝って、パパッとやりとげたように見えるときもあるけれど、上辺では見えないその裏側では、まさに血のにじむような努力を重ねたのではないだろうか。
こうして言葉に書けば、そりゃそうだよ、と思うけれど、でも実際のところは、他人には見えない部分で本当に細かく細かく、様々なことを考え、思考に思考を重ね、それを実行するために、嫌だけれども、吐き気を覚えるほど逃げ出したくなるほどやめたいけれども、自分の中で決めた「あること」を達成するためにすごくすごく小さなことを地道にコツコツと繰り返し繰り返し積み重ねてきたからこそ、大きな成果があるのではないだろうか。
もちろん、運的要素が強くてパッと芽が出た人もいるだろうけれど、パッと芽が出てもそのあと生き残るために考えて努力を重ねない人は、たぶん、長くは生き残れない。
長い年月、世間にそれなりに名前と業績を残している人は、世に出る前もそうだけれど、世に出たあとも、きっと地道な努力を積み重ねているはずである。
学生のころや社会人に入ってからでさえ、この「努力」という言葉が、「コツコツやっていく」という言葉が、本当に嫌いだった。
そうした言葉を親や周囲の大人からかけられると、ひどく嫌気がさした。
でも、いま、人の親になり、成長していく我が子を見ていると、コツコツ積み重ねていくことの大切さを、いまさならがら思い知らされる。
一回一回の成果は小さくても、それが十回、二十回、五十回、百回、と積み重なっていくと、小さな粒の土も、いつかは小さな山になり、小さな山が集まれがやがては大きな山になる。
でも、一度に大きな山を築くにはとてつもない労力が必要だ。だからなかなかできない。
一方で、小さな土の粒を積み重ねて山を作ることもとてつもなく面倒だから、なかなかできない。
どちらもできないから、私は中途半端な生き方しかできれいない。
でも、まだ人生半ばである。
自分の弱点に気づいたそのときこそが、ステップアップのチャンスだと思う。
これから先の人生で何ができるのかわからないけれど、いくつになってもチャレンジする気持ちを持ち続けながら、立ち止まらずに先に進んでいきたい、と思う今日この頃である。
どんなに文明が進もうが、変わることのない「大切なこと」
知らなかったけど、いま、本屋さんを開業しようとする人が多いらしい。
といって、本が売れない時代であることは間違いないから、開業しても経営はなかなか難しいらしいし、開業するにしても、かつての「本屋さん」という、単純に本を売るだけの商売ではやっていけない。
とはいえ、本を愛し、本屋さんを愛する人は多く、そういう人たちが自分たちの「理想」を具現化した「本屋さん」あるいは「出版社」をあちこちで立ち上げているみたいだ。
本好き、本屋さん好きとしては、とても嬉しいことである。
このコロナの最中、町の本屋さんはますます厳しい状況に追い込まれているのではないかと思う。
本屋さんだけではない。
小売店をはじめ、いろいろな商売が経営を存続させることがとてもとても難しくなっている。
きっとこれから先、これまでとは違った「社会の在り方」になるだろうし、商売も、これまでとは違う「在り方」に変わっていくだろうと思う。
それがどんな風に変わっていくのかは全くわからないけれど、きっとこの先、2050年あたりまでは、けっこう動乱の時代になるのではないかと個人的には思っている。
いま、世界は色んな意味で「過渡期」なのだと思う。
そんな中で私たちは生きていくわけだけれど、たとえばこの写真。
これは、もう20年以上前に生まれて初めて行った海外旅行で撮ったものである。
たぶん、ロンドンだと思う。
この写真を撮った時、インターネットはあったけれど、今みたいにパソコンが多くの家庭に広く普及してはいなかったし、そもそも、スマホやタブレットなんて存在さえしていなかった。
ところがいまはスマホやタブレットは各家庭の標準装備のようなもので、家の中でも外でも、みんないたるところで気軽にインターネットで情報を得ることができる。
世界中どこへでも簡単に、ボタン一つ押すだけで気楽に疑似海外旅行ができるのである。
この写真を撮った当時には、まさかこんなに便利でグローバルな時代が数年先に来るなんて、想像さえもしていなかった。
このコロナ騒動の中でも、在宅勤務が可能になった要因の一つにインターネットによるオンライン環境があったことは大きいだろうと思う。
これから先も、このグローバルな社会が続いていくのかはわからない。
今回のコロナの影響もあり、また近い将来きっとやってくるだろう不景気の影響もありで、ある種「閉鎖的な感覚」に世界は陥ってしまうかもしれない。
どう変わっていくのかは本当にわからない。
けれど、単なる情報だけに惑わされないようにはしていきたい。
自分の中にきちんとした「ものさし」を持って、きちんと自分で考えて判断できる人になりたい。
これはたぶん、どんなに文明が進もうが、変わることのない「大切なこと」だと思う。